私たちの生活に欠かせない存在である塩は、人類の歴史とともにさまざまな進化を遂げています。日本では神話時代からすでにあったとされる塩。世界に目を向ければ、古代文明のなかにも塩の存在を確認することができます。
塩は人類とともにどのように変わってきたのか、その歴史を紐解いてみましょう。
目次
各時代の塩
神話時代・古代の塩
地球が誕生したのは今から約46億年前と推定されています。
それから数億年かけて、今の海のもととなる原始海洋ができました。
原始海洋は地球そのものの環境とともに変化し、海水に含まれる成分が安定していきました。長い時間をかけ、今の海水に含まれているのと同じような、塩類を含む海水になったのです。
海水に含まれる塩の量を全て合わせると、5×1016トンにものぼります。※1
人間が塩を口にするようになったのは、文明の始まりと関係していると考えられています。
もともと、野生の動物を狩猟したり植物を採取したりして生活していた頃は、肉や血に含まれている塩分で足りており、あえて塩を摂取する必要はありませんでした。※2
やがて人間は、農耕によって作物を収穫し、同じ場所に定住するようになります。すると、野菜や穀物からだけでは十分な塩分が得られず、別に塩を摂取するようになりました。
さらに、家畜を飼うようになると、動物たちを飼いならすためにも塩が必要だったと考えられています。※2
『古事記』には日本の始まりが塩づくりからできた塩の島(淤能碁呂島 おのころじま)だったという記述があり、塩土の爺という神様が重要な役どころとして登場しているといわれています。
『古事記』には、神々が国生みをする場面で、大海に矛を突きさしてかき混ぜ、したたり落ちた塩が積もって島ができた……という記述があります。塩づくりからできた塩の島が、日本の始まりというわけです。『古事記』にはほかにも、塩椎神(しおつちのかみ)いう神様が重要な役どころとして登場します。
また、万葉集や古今和歌集には塩をつくる方法である「藻塩」という言葉がいくつも残っています。実際、この時代の遺跡からは藻塩をつくるための土器が発掘されています。※4、5、6
塩田でつくられる塩の時代
日本の塩づくりは、基本的には①海水を濃縮して濃い塩水をつくる、②それを釜で煮詰めて塩の結晶を取るという2段階で行われます。※4
万葉集に登場した藻塩は、①の海水を濃縮する段階で海藻を利用したことで生まれたと考えられています。
鎌倉時代末期になると、海水を濃縮する手法は、海藻から砂へと変化します。※6
海辺の砂浜に塩浜(塩田)をつくり、海水を補給しながら濃縮するという方法です。
海水をどのように塩浜に補給するかにより、大まかに揚浜式と入浜式に分類されます。※6
さらに、江戸時代初期から長らく続いてきた入浜式に代わり、昭和20年代に登場したのが、流下式です。
揚浜式
海面より高い地面を平らにして粘土で固め、塩田をつくります。そこに人力で汲み上げた海水を撒きます。
太陽の熱と風を利用して水分を蒸発させ、塩分を砂に付けます。その砂を沼井(ぬい)と呼ばれる装置に入れて海水を注ぎ、濃い塩水を取る方式です。※6、※7
入浜式
満潮と干潮の中間の高さにある砂地の塩田に海水を引き込み、濃縮する方式です。
遠浅の海岸に堤防をつくり、満潮時に堤防の水門を開けることで、効率よく海水を補給します。その後の手順は揚浜式と同様です。※6、※7
流下式
ゆるやかな傾斜をつけた地盤に水がしみこまないよう粘土等で加工し、小砂利を敷いて流下盤を形成します。そこにポンプで汲み上げた海水を流し、太陽の熱と風で水分を蒸発させます。
そうしてできた濃い海水をさらにポンプで汲み上げ、竹などを組んでつくられた枝条架(しじょうか)の上から注ぎます。風の力で水分を蒸発させ、枝条架から落ちてきた濃い塩水を煮詰めて塩をつくります。※6、※7
このように、時代の流れとともに効率のよい方式の塩田が発達し、より少ない手間で量産できるようになっていきました。
②の、濃い海水を煮詰めて結晶化する工程も、時代とともに変化していきました。※4、6
藻塩の時代には主に土器が使われていましたが、塩田で塩をつくる時代になると次第に土釜や石釜へと発展し、やがて竹製の骨格で漆喰や貝粉を使って固めたあじろ釜や、鉄釜といったさまざまな塩釜が使われるようになりました。
江戸時代以降に普及した、入浜式塩田と鉄製平釜による塩づくりは、近代まで続けられていました。※4、6
昭和初期には、海水を煮詰めて結晶化する工程が劇的に変わります。それまでの平釜(大型の鍋)から、蒸気利用式の釜や立釜と呼ばれる真空式の釜が導入されるようなり、塩づくりは技術革命の時を迎えました。※4、6
参考資料
※1 橋本壽夫(著) 2009年2月発行 塩の事典 東京堂出版
※2 マーク・カーランスキー(文) S.D.シンドラー(絵) 遠藤育枝(訳) 2008年9月発行 世界を動かした塩の物語 BL出版
※3 尾方昇(著) 2009年3月発行 塩のちから なぜ塩がないと人は生きられないか 素朴社
※4 尾方昇(著) 2011年9月発行 塩入門 日本食糧新聞社
※5 廣山尭道(著) 2016年11月発行 塩の日本史 雄山閣
※6 塩百科 日本の塩づくりの歴史 https://www.shiojigyo.com/siohyakka/made/history.html
※7 財団法人塩事業センター(編) 2008年7月発行 海から来た宝物 塩の大研究 さまざまな用途を発見しよう PHP研究所
江戸時代の塩
日本中で行われた塩づくり
江戸時代は塩づくりが広く普及した時代でした。
それ以前もさまざまな方法で塩づくりは行われてきましたが、江戸時代頃には各地でさまざまな製塩法が発達していました。
例えば、南西諸島地域では塩田による塩づくりが行われていた一方で、中世以前の方法による塩づくりも各地で行われていました。陸地に海が入り込んだ地形の太平洋岸では、揚浜式が発達した地域のほか、入浜式の一種である古式や、塩尻法で塩づくりが行われている地域もありました。
東北やその周辺地域などの山奥でも、塩づくりが行われていたのは興味深いです。
海水ではなく、塩泉(塩分が多く含まれる鉱泉)を原料とした塩づくりです。
濃縮せずそのまま直に煮詰めたり、塩田を利用し濃縮してから煮詰めたり、地域によってさまざまな方式で塩づくりが行われていました。※5、※6
塩づくりが盛んな地域
かつて「十州塩田(じっしゅうえんでん)」と呼ばれた、瀬戸内海周辺の10カ国(播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、阿波、伊予、讃岐)では塩づくりが盛んでした。当時、この地域だけで、日本全体の生産量の8~9割を占める生産量をほこっていました。
瀬戸内海沿岸地域は気候や地形だけでなく、潮の干満条件や潮の流れ、煮詰め工程で使用する釜の原料となる鉱物資源にも恵まれていました。そのため、塩づくりが大きく発展したのです。※5、※6
十州のひとつである播磨国赤穂(現在の兵庫県赤穂市)では、藩が主導して積極的に塩田開発を行い、三代で約100ヘクタールもの塩田を開拓したといいます。
江戸時代を通じて、最終的には400ヘクタールまで拡大しました。※8
赤穂藩といえば1703年、忠臣蔵として有名な元禄赤穂事件が起こったところです。
この頃すでに安定した量の塩を生産していた赤穂塩田。
ほかにもさまざまな後進が出てきており、その中の1つに三河(現在の愛知県)領主の吉良家が所有する塩田がありました。
一説には、塩の製法をめぐって両者に諍いが起こったことがきっかけで刃傷事件に発展したともいわれていますが、真偽のほどは分かりません。
ただ、当時の赤穂塩田と吉良塩田には規模や生産量、経営手法などに大きく差があり、赤穂塩田はすでに完成形に近かったとされています。
遠方の藩に製塩法の指導者を派遣していましたし、広大な塩田でかなりオープンに塩づくりが行われていたのではないか、とも考えられています。※5
参考資料
※3 尾方昇(著) 2009年3月発行 塩のちから なぜ塩がないと人は生きられないか 素朴社
※4 尾方昇(著) 2011年9月発行 塩入門 日本食糧新聞社
※5 廣山尭道(著) 2016年11月発行 塩の日本史 雄山閣
※6 塩百科 塩の歴史 日本の塩づくりの歴史
https://www.shiojigyo.com/siohyakka/made/history.html
※8 赤穂市教育情報ネットワーク 日本遺産 「日本第一」の塩を産したまち 播州赤穂
http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/japanheritage/salt/
近・現代の塩
塩専売制度
1905年、塩の供給量や価格のコントロール、財政収入確保のため塩専売制度が開始されました。
塩の専売制自体は、江戸時代にすでに多くの藩で行われていましたが、ほとんどの藩で塩問屋の妨害や領民の反対にあい、幕末まで制度を続けたのは仙台藩と金沢藩だけだったようです。※5
明治に入り鎖国が解かれると、海外から入る安くて高品質な塩との競争が始まり、国内の塩業の保護・育成、生産技術発展を急ぐ必要がありました。当時戦局が悪化していた日露戦争の戦費を調達するという、財政確保も大きな目的でした。※1、9
日露戦争が終わると、塩専売制度に対する世論の反対の声は大きくなりました。政府の買取価格を維持したまま、消費者への販売価格を安定させるよう改変されました。
収益性の低い塩田を整備したり、輸送費を国が負担し、それらを請け負う会社組織をつくらせたりしました。塩の流通経路を統一し、それに携わる人たちの利益配分の上限を決めたりもしました。
その後も情勢にあわせ、塩業整備は続けられました。※5、※9
改変や方針転換を重ねてきた塩専売制度は施行から92年間続きましたが、新たな塩事業法の制定に伴い、1997年に廃止されました。※6
明治以降の塩づくり
1882年、明治政府は塩業の実態調査を行い、濃縮工程における機械利用、塩田面の有効活用、煮詰め工程で使う釜の改良や余熱の有効活用などを提案しました。
この調査をもとに、各地の塩田主や製塩会社に気象観測のための計器を配布したり、大掛かりな実験を委託したり、十数年に及ぶ博覧会や諮問会の開催、組合の組織化、塩業調査所の設置、製塩試験場の開設などを行いました。※5
欧米の製塩技術を視察し、燃費節減のため新しい設備の導入試験なども行いました。
また、当時は塩業界でも多くの新しい技法が生まれ、多くの実験や研究が行われた時期でもありました。※5
昭和に入ると、煮詰め工程に大きな改革が起こります。
まず、蒸気利用式塩釜と呼ばれる釜が登場します。
これは、密閉式の結晶釜で発生した蒸気を予熱釜の熱源として利用する構造になっています。
従来の平釜による煮詰め工程に比べ、燃料である石炭の使用量を大幅に節減することができ、生産量も向上しました。※6
次に登場したのが、真空式蒸発缶です。
これは、密閉した釜(缶)の気圧を下げ沸点を下げ、釜で発生した蒸気を次の釜の熱源として利用していく構造です。釜は3~4個が連なっており、連動して沸騰していきます。
蒸気利用式塩釜からより進んだ方式で、発電機や大型ボイラー、乾燥機や遠心分離機といった関連技術の改革も進んでいきました。※4、※6
新しい煮詰め工程により、肉体労働的な人力や熟練の技といったものは必要とされなくなり、装置の監視や操作といった作業が必要になっていきました。※5
工場でつくられる塩の時代
さらに塩づくりが大きく変わったのは、イオン膜法(イオン交換膜製塩法)が導入された1972年です。
濃い海水をつくるための濃縮工程では、塩田で水分を蒸発させたり取り除いたりしていましたが、イオンの性質を利用した方式に変わりました。
この方法は塩田で行う塩づくりのように天候の影響を受けないので、生産性の向上につながっています。
100万分の1mm~2mmの孔が開いている特殊な膜を使用するので、海水中の細菌類や汚染物質を除去することもできます。日本の塩は世界でも最高水準の安全性が守られているのです。
さらに、つくり手も過酷な労働から解放されることとなり、大量生産を可能にしました。※3、※4、※6
参考資料
※1 橋本壽夫(著) 2009年2月発行 塩の事典 東京堂出版
※4 尾方昇(著) 2011年9月発行 塩入門 日本食糧新聞社
※5 廣山尭道(著) 2016年11月発行 塩の日本史 雄山閣
※6 塩百科 日本の塩づくりの歴史
https://www.shiojigyo.com/siohyakka/made/history.html
※9 塩百科 塩の制度の歴史
https://www.shiojigyo.com/siohyakka/number/history.html
海外の塩の歴史
古代中国と塩
中国の山西省運城市にある運城塩湖では、紀元前6000年には製塩所がつくられ、湖面に浮かぶ塩の結晶を採っていたといわれています。
また、紀元前450年頃にはある人物が塩を煮詰めるために鉄鍋を使ったという記録が残っており、塩づくりに鉄が使われるようになったことを示す初めての資料と考えられています。※10
日本でおなじみの醤油と漬物も、中国発祥とされています。
もともと中国では、塩をそのまま食品に振りかける使い方はせず、多種多様な調味料で塩味をつけていました。
中国でよく好まれた料理に「ジャン」があります。これは塩漬けにした魚を発酵させ、大豆を加えたもの。やがて魚を使わなくなり、「ジャンユ」という調味料になりました。
これが醤油の始まりです。
そのほかにも、中国では塩と豆を使ってさまざまな調味料がつくられていました。乳酸発酵が知られるようになると、土器の壺に野菜と塩を入れ、石で重しをして漬物をつくるようになりました。※10
中国北部を東西に伸びる万里の長城ができたのは、塩のおかげといわれています。
唐の時代、塩の製造も販売も国が取りしきっていました。
王朝は財政状況に合わせて塩の値段を操作することで、城の建造費を捻出することができたのだそうです。※2
古代ローマと塩
ローマ帝国は、その勢力を塩によって拡大していきました。※2、10
イタリアやローマから広がる領土にはたくさんの製塩所がつくられ、その周辺に都市が築かれました。
塩を各地に運ぶ目的でつくられた「塩の道」は、世界へと広がっていきました。
ローマ帝国の塩に対する考え方は中国のそれとは対極的で、塩は誰にでも与えられるべきもの、多くの人に行きわたらせたいものと考えられていました。※2、10
事実、庶民の食卓にも塩が置かれていたといいます。
兵士に対して塩を給料として支払っていたことから、給料を意味する「サラリー」という言葉が生まれました。また、兵士を意味する「ソルジャー」という言葉も、塩を意味するラテン語「サル」から生まれたとされています。
ほかにも、ローマ人が野菜の苦みを消すために塩を振りかけて食べていた様子から、「塩を振る」を意味する「サラダ」という言葉が生まれました。※10
ローマ人の食卓には塩が置かれていましたが、食卓塩として使われるほか、スパイスや保存料として利用されることも多かったようです。
特にハムやソーセージといった豚肉の加工品に使用することが多く、さらにはオリーブの実を塩漬けにして油を搾ったり、塩水を利用していろいろな野菜を保存したりしていました。※10
古代エジプトと塩
古代エジプトは、ナイル川の恩恵を受けて発展しました。ナイル川の先に広がるアフリカの砂漠には干上がった湖があり、そこから塩を簡単に手に入れることができました。※2
古代エジプトの富裕層は、バラエティ豊かな食生活を送っていたことが分かっています。
紀元前2000年以前の墓からは、粥やパンのほか、鶏や牛の肉、煮込んだ果実やチーズ、ビールなどが見つかっています。葬儀のお供え物として、塩漬けの魚と食卓塩入れがあったともいわれています。※10
パピルスや壁画によれば、塩を調味料の材料にしたり、肉や魚、野菜を塩漬けにしたりして食べていたという記録が残っています。
塩漬け食品、特に魚の塩漬けは4000年にわたって交易が行われていました。適切に処理された加工食品は腐敗の心配がなく、高い価値があったそうです。※10
さらに古代エジプトでは、死者の保存にも塩を使用していました。
遺体をそのままの状態で永久に保存することで、永遠の命を得られると信じられていたためです。
ただし遺体の保存には、いわゆる塩(塩化ナトリウム)だけではなく、天然のナトリウムであるナトロンも使用されていたと考えられています。
ナトロンにも塩化ナトリウムが含まれていているため、痕跡だけを見ても確定的な判断は難しいようです。※2、※10
参考資料
※2 マーク・カーランスキー(文) S.D.シンドラー(絵) 遠藤育枝(訳) 2008年9月発行 世界を動かした塩の物語 BL出版
※10 マーク・カーランスキー(著) 山本光伸(訳) 2005年12月発行 「塩」の世界史 歴史を動かした、小さな粒 扶桑社
「塩の日」って、知ってますか?
1月11日は塩の日
ところで、「塩の日」について知っている方はどれくらいいるでしょうか。
現在、1月11日が「塩の日」とされています。
その理由は、遠い昔の戦国時代にまでさかのぼります。
甲斐(現在の山梨県から長野県にかけてのあたり)を治めていた武田信玄は、相模(現在の神奈川県のあたり)を治めていた今川氏との同盟を破棄し、東海方面へと進出していきました。
それに怒った今川氏が、駿河(現在の静岡県のあたり)を治める北条氏と手を組み、ほかの地域から武田氏側に塩が入らないように画策しました。
甲斐の国には海がないため、人々は塩が手に入らず、生活に困ってしまいました。
この状況を知った越後(現在の新潟県のあたり)を治める上杉謙信は、長い間武田信玄と敵対関係にあったにもかかわらず、塩の流通を続けたとされています。
武田信玄の領地である松本藩(現在の松本市)に塩が到着したのが、1月11日とされていることから、この日を「塩の日」と制定したようです。※7
現在も、松本市では1月11日に近い週末に、「あめ市(昔は塩市)」が開かれています。※7
また、上杉謙信の領土だった新潟県糸魚川から、長野県松本市に続く「千国(ちくに)街道」は、「塩の道」とも呼ばれています。※3
敵に塩を送る
「敵に塩を送る」という言葉を、みなさんも目にしたことがあるかと思います。
「苦境にある敵を助ける」という意味で使われるこの言葉は、前述のとおり、上杉謙信が塩不足に悩む宿敵・武田信玄側に塩を送って助けたという逸話が由来といわれています。
この逸話についてはさまざまな説が複数の書物に残されていますが、事実がどうかは明確ではありません。
上杉謙信が武田信玄に「塩をプレゼントした」とも取れますが、単に「越後から塩を買い付けることを禁止しなかった」と取れる説もあります。
いずれにしても、海のない地域で塩を絶たれることは、武将だけではなく、その地に暮らす人々の生活をもおびやかす大事件だったことは確かです。
塩は、人々が生きていくうえで、それほど大切なものだったのです。
参考資料
※3 尾方昇(著) 2009年3月発行 塩のちから なぜ塩がないと人は生きられないか 素朴社
※11 総務省統計局 なるほど統計学園
https://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d0111.html
※12 広辞苑 第七版 岩波書店